Disco Time machine - Back

六本木ギャングスターズ
2005.5.14

西麻布・Xrossにて、マイケル池田さん、アフロレイキのミサコさん(広島ソウルトレインギャング)と御一緒させて頂いた際に、マイケル池田さんから「今度久しぶりにパーティをやるからおいでよ」と言われて若干記憶から消えかかっていたのだが、深夜にマイケル池田さんから電話を頂き「僕のステージがあるから!」ということで、パーティの主旨も全く知らないままに友人と一緒に青山のワインバー・タストヴァンへ。会場について…??? えっ結婚式…???
まさにSurprise Partyということで、なんと大御所 DJ Yutaka氏の結婚5周年記念パーティだったのでした。もちろん奥様には内緒との事。炸裂するクラッカーの祝福で始まったこのパーティ、音楽関係・サーフィン関係はもとより、幅広い年代の方たちが会場にぎっしりと集い、DJ Yutaka氏の人柄をしのばせる、とてもなごやかな雰囲気の中、素晴らしいアーティストの方々のライブとともに本当に素敵な時を過ごすことができました。
ほんの一部ですが「六本木ギャングスターズ」のステージと楽屋でのインタビューに焦点を絞ってご紹介します。

司会:宇治田みのる氏〜中略・今日はなんと、ダンス界の大御所達に来て頂きました。
マイケル池田さん、テディ団さん、チェリーさん、そしてシャイン!
DJ Yutaka氏Disco業界に入って今年27年になります。今Clubと言われている場が、昔Discoと呼ばれていた時代、俺がDisco Soundに本当に火が点いた時代に、六本木にキサナドゥと呼ばれていたお店がありました。その時代に店長をやっていたのが、マイケル池田さんです。あの時代の六本木の社交界をささえたのがマイケル池田さんだったと俺は確信しています。そして今日は、なんと、日本で最初に世界規模のダンスコンテストで1位になったテディ団さん、大阪を拠点に最近は韓国でも活躍されているダンス界の大御所のチェリーさん、この方たちがいたからこそ今のクラブシーン、ディスコシーンがある訳で、踊るということが一般の遊びになったのもなんといってもこの人達が盛り上げたからと思います。ぜひみなさんにこの人達の踊りを見てもらいたいと思います。拍手をもってお迎え下さい。大先輩のダンスパフォーマンスお送りします。
「マイケル、テディ、チェリー、シャイン、RGS !」


DJ Yutaka氏のメッセージ

俺は音楽をずっとやってきました。音楽をやってきた事によって、こんなにたくさんの方たちが俺の為に集まってくれました。音楽がなければ生きてこられなかったし、音楽を愛してきたからこそ今も生きてこられていると思います。音楽しかできないのだけれど、俺の音楽でみんなの人生のパワーになれるのだったら、死ぬまでみんなの為に良い曲を書きます。みんな人生に目標があると思います。一人ひとりみな目標をもって進んでいる人たちのために、絶対に自分のゴールに行ける様に祈っています。だから、みんな自分を信じて、自分を愛して頑張ってください。今日は本当に有難うございました。


インタビュー特集

チェリー氏:ワイルドチェリー

DT:ステージおつかれさまです。とても素晴らしいステージでした。まずは、チェリーさんの活動そして、マイケル池田さんとの接点についてお伺いしたいのですが。

チェリー氏:83年からショウダンスというダンスグループを開始し、OGSというのが自分が持っているグループでの活動です。20代から40代のメンバーで構成されています。東京・大阪を中心として活動し、韓国にもグループがあって活動しています。
DT:80年代から90年代にかけてヒッピホップカルチャーの波が席捲した中、Osaka Gang Stersを率いて、ポップ、ポッピングというジャンルでの展開を広められたということですね。

チェリー氏:マイケル池田さんはダンサーの師匠の師匠にあたる方です。Disco業界では大阪でもトップの位置で活躍されていた方ですので、ダンスとは別につながりをもつことができた訳です。ただ、今まで一緒に踊る機会は全く無くて、最近彼の中で火が点いたというか、熱いものがあったということで、今日はご一緒しました。やはり、ダンサーということなんです。僕は、普段は大阪を拠点としています。

DT:ずっと、最前線でダンスをやっていらっしゃるというのは、常に厳しい訓練をされているものと思います。
チェリー氏:そうですね、筋トレ、柔軟は常に実施しています。ダンスを教える立場ですので、ESPという学校を始め、専門学校などで教えています。

DT:Discoとの接点はどの辺ですか?
チェリー氏:良樹さんとはミナミのマハラジャですね。あとジュビレーション、下のカリスタで店長をされていた時期もありました。
DT: 今日は有難うございました。お話をお伺いすることができて光栄です。


WILD CHERRY OGS(oriental gang stars)
LIFE IS DANCE

SOUL FUCKTRY


テディ団氏

DT: ステージおつかれさまです。ところで、テディ団さんというと、TV番組「ソウルとんねるず」での審査員をされていた方としても、おなじみです。「ソウルとんねるず」は、アフロレイキやアナザーワールドに集っていた方達も多く出演されていました。まずは、マイケル池田さんとの接点からお伺いします。
テディ団氏:マイケル池田さんとはねえ、共通する友人でター坊という友人がいたんです。昔、「ぎんざNOW」というTV番組があって、それに出ていた方なんです。その方を通じて知り合ったんです。まだ、大阪から東京にでてきてすぐの頃で、あまり踊りをそんなにやっていなかった頃でした。東京から大阪、彼も大阪で活躍していた時期もあったし、もし真剣に踊りをやるんだったらマイケル池田さんとやな…という事だったです。

DT:その頃マイケル池田さんは振り付けの指導などをしていましたね。
テディ団氏:そうですね。70年代、まだ僕が20代の頃のことです。ディスコでは、アフロレイキとかハレムとかそういう所があって、連れて行ってもらっていろんな踊りを勉強させてもらいました。あとベースのあった福生とかそういう所を見て、自分で勉強していきました。その時にいろいろアドバイスをしてくれたのがマイケル池田さん。その後世界大会がありました。

DT:「ぎんざNOW」の頃からつながっているんですね。
テディ団氏:僕の場合、大阪がベースだったんで、東京に来ていろいろ勉強して大阪に帰って、今東京ではこんなダンスが流行っているというのを広めるという感じでした。それでね、結構自分たちが楽しんでいる踊りを、これ東京で流行っているよってオリジナルの踊りを作っていった経緯もあります。そういう踊りでね「ショル」っていう踊りがあって、肩をこうやってね…。それを東京で流行らせて大阪で流行らせる、そして全国的に流行らせてね。でも、これは黒人のダンスではないですね。
DT:そういうオリジナルのダンスって楽しいですね。ショルっていうのは、70年代でどの辺の踊りですか?
テディ団氏:うーん、マービンゲイ、黒い夜とかその辺です。
DT:Got To Give It Upですね。これは、Billboardで1977年6月にNo.1になりました。

テディ団氏:それからマイケル池田さんとはずっと長いつきあいで、東京と大阪を行き来していました。その頃、僕は新宿に住んでいたんです。マイケル池田さんが、六本木のアフロレイキから青山のジャンジャンに移った頃ですね。僕は常に新しいダンスを追及していました。そして自分の身についていったということです。良樹さんからは、世界大会の時も自信を持って踊るということ、自分の踊りを踊るということを言われました。一時は黒人を目指すという気持ちだったのですけれど、自分の踊りでいいじゃないかということを最終的に言われました。

DT:確か世界大会は、78年とかその位の頃、イギリスでしたね。あの頃は、世界的なディスコブームで、日本人が世界大会で優勝したということは大変な驚きを持って、日本の新聞、一般紙でもかなり大きく報道されました。
テディ団氏:そうです、イギリスでした。ダンサーとしての78年の世界大会、僕の中でも頭の中では信じていなかったんです。ヨーロッパをツアーして帰る予定でいたので、ある部分、買物でもして帰ろうと思っていたんです。その後フランスに行って、もう一度イギリスに行って帰るというツアーだったんです。ところがイギリスで優勝してしまったので、僕はヨーロッパを回れなかったんです。そのまま残ったんですが、自分の中では準決勝まで行ければっていう感覚だったので、大変ラッキーでしたね。

DT:今はダンスを教える立場として活躍されているとの事ですが、先日、セルシーでもショウをやっていらっしゃいましたね。
テディ団氏:そう、千里セルシー。今は大阪で教えています。東京ではユニットでパパイヤさんと一緒にやったりして、大阪では専門学校で教えています。ショウは全国でやっています。
DT:今日は貴重なお話を聞かせて頂き、有難うございました。

SOUL FUCKTRY



スペシャルインタビュー:末木強氏
hi-g international

DT:本日、楽屋で末木さんのお話が伺えるとは思っていませんでした。お忙しい中お時間を頂き、有難うございます。末木さんはマハラジャ全盛期のプロデューサーとしての活躍が、みなさんおなじみだと思います。いろんな世界の方が、マハラジャを経験されているのですが、まず音楽との接点から教えて頂きたいのですが

末木強氏:音楽との接点は、マイケル池田さんがやっていた六本木キサナドゥに通っていて、その当時はずっとサーフィンをやっていて、サーファーディスコ一色だったんですよ。僕は、伊豆七島新島の出身なんです。僕も古くからサーフィンをずっとやっていました。その頃いろんな先輩に連れられていったのがキサナドゥでした。DJをやっていたのは、三島さん、アトムさんという方だったんですね。その先輩がかっこよくてね。そんなきっかけがこの仕事をするきっかけですね。その後、たまたま縁があってジェスパに入る事になって、Yutakaはジェスパで既にDJをやっていたんです。だからかけだしのころからYutakaに可愛がってもらっていたんです。それからいろんなお店でやる様になってから、マハラジャに入社して、関東エリア全部をプロデュースする様になりました。その後、94年に海外でDJに挑戦したいということで、アメリカに渡り、95年から2001年までLAでDJをやっていました。まあ、その間にイベントで日本に帰ってきたりというのはあったんですが。それで日本に帰ってきてからパートナーとDJプロダクションをはじめて今に至っています。

DT:あの頃に一番輝いていた部分というものは、やはりずっと残っているものですね
末木強氏:そうですね。一番盛り上がっていた時代ですね。一番輝いていたあの頃から自分がこの業界に身をおく様になって、10年位やってからいろんな大御所の方とお話ができる様になったという感じですね。今日は憧れの人たちのダンスを生で見られたので本当に鳥肌がたちました。
DT:今日は貴重なお話をお聞かせ頂き、有難うございました。


宇治田みのる氏
club XROSS

DT:本日は、司会ということでおつかれさまでした。お忙しい中、お時間を頂き有難うございます。ところで、先ほどの司会の中の言葉の中で、宇治田さん、DJYutaka氏ともにDiscoという言葉に力が入っていた様に感じたのですが。
宇治田みのる氏:僕は小さい頃、おふくろが女手ひとつで育ててくれたんですね。おふくろが遅くまで仕事をしていたので、夜遅くまでTVを見られる環境にあったんです。当時、深夜SoulTrainを見ていたんですね。それを見たときに、音楽でみんな楽しそうに踊っていて、これってすごくいいなあって。たぶん孤独な少年だったんでしょうね。それで周りの友達がキャンディーズだピンクレディーだ天地真理だって言っていたときに、僕はアイズレーブラザースとかスタイリスティックスとかのレコードを買って、電蓄でドーナツ盤を聞いていました。そんな頃が、ソウルミュージックに携わるきっかけになったと思います。中学校の頃、1979年に「サタデーナイトフィーバー」があって、日本中どこの都市にもディスコができて、僕の地元の吉祥寺にもスタジオ54、インディペンデントハウス、チェスターバリーパート2など..
DT:城っていうのもありましたね。
宇治田みのる氏:そうそう、城っていうのもあったね。そういった所におふくろに連れて行ってもらって、そこではじめて音楽を出しているDJの存在を知ったんです。しかもそれがつながっていてね。音楽で人をハッピーにすることができてね。例えば、今日来ている人の中には悩みを抱えている人もいるかもしれない、昨日彼氏と別れた人もいるかもしれない、でもみんなつながってハッピーになれるという事なんです。2,500円とか3,000円だせば、みんな同じ空気の中で一体感を持つことができる、そんなDJの仕事をしようと。そんなことがきっかけです。それで、アルバイトしてターンテーブル、ミキサー、アンプとかを買いました。
ところで、実は僕は、強やYutakaの様にハコのDJをやってたことはないんです。

DT:そうかもしれないですね。専属とかそういうことではないですね。
宇治田みのる氏:こっちでこういうイベントがあるよっていうとDJをし、こっちでこういうパーティがあるよっていうとDJをし、ファッションショウがあるよっていうと選曲したりと。
DT:プロのサーファーもされています。
宇治田みのる氏:そうですね。そんな時代を経て今に至るということなんです。

DT:音楽関係の記事で宇治田さんの記事を読ませて頂いたんですが、Leopardcat閉店の時に、ラストでLets Go Round Againで2列で踊るという、当時私も客の立場だった訳ですが、その情景というのはすごくわかるんです。
宇治田みのる氏:確か僕が先輩に連れていかれて、まだラインの中に入る立場ではなかったんですが、閉店の時にDJの方がこれが最後の曲でこれが最後になってしまうんだけど、「みんな踊ってくれ、本当にありがとう」って言ってかけてくれたんです。そしたら泣きながらステップ踏んでいる人たちがいてね。それを見た時に、本当にDJをやろうって思いました。それで、今はClubって、本当はいろんな人が来るからコミュニケーションの場なんだけど、ナンパ目的だったりしているじゃない。昔のDiscoっていうのは、いい人間関係を作るとか..
DT:偶然の人の輪とか..
宇治田みのる氏:そう、たぶんそこで知り合って結婚した人もいるでしょう。ビジネスを一緒にやっている人もいるでしょう。当然、悪い奴もいます、消えちゃった奴もいるだろうし。そういういろんな人生勉強をさせてくれたのがDiscoだったと思います。ぼくは小さい頃から一人ぼっちだったし、人の集まる所が好きだったというのもあります。そしてそこでいろんな仲間が出来て、強にしてもマイケル池田さんにしてもそうじゃないですか。僕は本当にDiscoというものに感謝しているし、その時代が無ければDJなんてやっていないと思います。

DT:それで、Discoという言葉に感情がこもっていたように感じたんですね。Average White Bandの曲では、Pick Up The Piecesのイメージが強かったのですが、Lets Go Round Againが今でも常にフロアで定番なのは、こんなエピソードが語り継がれているからでしょう。

宇治田みのる氏:そうですね。当然、僕も一生懸命かけましたしね。DJする時になぜこの曲をかけるというのは伝えずとしても、たぶんかけていればみんなに気持ちもつたわるんじゃないかと思って、結構一番最後の曲としてかけてみたりね。
DT:今日は貴重なお話を聞かせて頂き、有難うございました。


マイケル池田氏からのメッセージ

「六本木ギャングスターズ」

音楽っていうのは素晴らしいと思っています。自分の中で音楽と踊りは、苦にならないんですよ。良き仲間との出会いを音楽が作ってくれるので、本当に感謝しています。これを機会にDJYutakaが、また素晴らしい音楽を作ってくれたら、僕ら踊る側としてはもっと嬉しいよね。踊る側というのは黒子的な存在というか、歌をうたう人、音楽作る人には裏方があったりするけど、そこにベースがきっちりしたものがあるから前に出られると思います。今日はシャインがそこを感じてくれて一緒に合体してやりたいと。その志が好きでね。失敗したらテキーラおもいっきり飲まされるけどね。今日はまさにキサナだったね。赤松がね、Discoっていいねえって言って帰ったの。今日はDiscoじゃないって!澤村もね、本当にエネルギーもらったって。参加させてもらって本当に感謝しています。もう当分涙でないな。


Disco Time machine