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メビウス
H. HIRAMOTO

平 本 博 秋

 六本木「メビウス」の初期スタッフとして従事。
 大学卒業後、商事会社に勤務しサラリーマン生活を経験、退社後に最後の20セントグループ「サハラ」で主任を経て帰広。
 喫茶店から「ちびっこギャング」「SOUL TRAIN GANG」「OUR GANG」をオープンし、現在に至る。

ソウルイン・アフロレイキ
SOUL INN Afro-rake MISAKO

平 本 美 江 子

 子供の頃からクラシックバレエを習っていたこともあり、そのせいか気が付いたら音楽とダンス好きになっていて「アフロレイキ」の初期スタッフの一員に。
当時の愛称は「アフロレイキのミサコ」。
(※当時、名前の一文字を変えてニックネームにするのが流行)

独占インタビュー

Disco Time machine(以下DTと省略):本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。Disco Time machineでは、最後の20セントグループ「メビウス」の初期スタッフ、「サハラ」で主任を務められた平本様、当時、一世を風靡していた「アフロレイキ」でお仕事をされていた奥様にお話を伺う事となりました。どうぞ宜しくお願い致します。

平本博秋氏(以下Hと省略): こちらこそ宜しくお願いします。

DT: まず、メビウスのスタッフとして従事することになったきっかけをお聞かせ下さい。

H: 昭和46年('71年)頃だったと思います。学生時代に有名だった店は「スペース24」「ムゲン」「ビブロス」「パルスビート」「エンバシィー」「ジ・アザー」などです。六本木でメビウスという斬新なディスコがオープンするという噂を聞いて、これは行かなきゃということで行ってみたのです。オープニングから3日間は入場料がフリーでした。新しい感覚のカプセル型DJブースが話題を呼んでいましたね。半年たって「どうしてもバイトしたい」という事で友人と応募しました。事務所は「深海魚」のあった、以前の青山ケンネルあたりにありました。面接は後に「ズッケロ」の店長になられた方でしたが、学生は雇わないという方針でした。そこは大昔の話なので、学生ではありませんということで・・・

DT: 当時のメビウスの布陣や方向性はどんな感じだったのですか?

H: マネージャーは加来氏、サブマネージャーは一戸氏、主任は吉山氏、キャプテンは福井氏、モデルの滝田道氏などです。DJは、FENでおなじみだったピーター・パーキンス(通称・ディック)、トニー、ハワイ大学卒のヨシエ、後にハーフのマイク鈴木、トマトなどです。

DT: '72年から'73年頃のメビウスの雰囲気やお客様はどんな方が多かったのですか?

H: やはり、ファッション産業が伸びつつ有った時期なので、アパレル関係、百貨店関係の方が多かったですね。芸能人では、ペドロ&カプリシャスの初代ボーカル前野曜子さん、資生堂MG5のCMで人気を博した草刈正雄さん、ゴールデンハーフ、野田テレサさんなど。そしてスタッフの滝田道氏のモデル仲間などです。また、この頃のディスコは一般的にソウルミュージックがメインだった事もあり、外国人のお客様も多かったですね。週末にはトラブルが若干ありましたが、それもこの頃のディスコの刺激的な魅力だったかもしれません。

※ペドロ&カプリシャス
ペドロ梅村氏を中心とした女性ボーカルをフィーチャーしたラテン・ポピュラー音楽グループ。前野曜子さんは初代ボーカリスト。ハスキーボイスのヒット曲「別れの朝」がおなじみ。その後ソロとして独立。
※草刈正雄
1967年に発売、男性用化粧品として初めてフルラインを揃えた「MG5」シリーズ。草刈正雄さんは2代目のCMモデル。
※ゴールデンハーフ
1975年フジテレビの「ビート・ポップス」で踊っていたハーフの5人により結成されたグループ。後に4人になり、バラエティ番組に出演して人気者になる。
※野田テレサ
女優。1971年日活「8月の濡れた砂」でデビュー、映画「金閣寺」「恋人岬」、TV「タイムトラベラー」「コートにかける青春」「11PM」他に出演。


DT: ファッションはどういったコーディネイトが主流でしたか?ドレスコードはありましたか?

H: ディスコでのファッションはコンテンポラリーが主流でしたが、メビウスは違いました。コンチネンタル(ヨーロピアン・ファッション)が人気で、革ジャン、ベレー帽、ハイネック、ベルボトム、パンタロンを組み合わせていました。後の「JUN」や「DOMON」のイメージです。ジーンズは京都の「HALF」というブランドで薔薇の刺繍が入ったもの、靴は5〜6センチはあるハイヒール。ヘアスタイルは長髪で後ろがすっとなっている「狼ヘア」で、私もそんな感じでした。ドレスコードは特に無かったけれど、六本木が特別な所だったことや、店のエントランスが長かったのでファッションに自信の無い方には、若干入りにくい雰囲気を醸し出していました。

DT: 流行していた曲、店的にアリなものはどの辺りですか?

H: 初期のメビウスのビートは重かったですよ。Isaac Hayes "Shaft", James Brown "Hot Pants", Stevie Wonder "Superstition", Rufus Thomas "Break Down", Archie Bell & The Drells "Tighten Up" あたりがヒット曲で、JB's, Temptations, Wilson Picket, Four Tops が人気を博していましたね。

DT: この頃、日本は高度成長期に入りますね。

H: そうですね。田中角栄の日本列島改造論が出て高度成長期に入ります。昭和48年にオイルショックもきましたが、今の不況とは違い、基本的にインフレの時代でした。

DT: 食事や飲み物、「ホットコーナー」「クールコーナー」と呼ばれた店内オペレーションはどんな感じだったのですか?

H: VIPは、クールコーナーと呼ばれたサパーコーナーで、テーブルキャンドルがあり、サントリー・オールドなどのボトルキープができました。芸能人の方が多かったですよ。サパーコーナーは本格的な中華料理を提供し、中華料理の総料理長が20セントグループ全店を統括していました。ダンスフロアを囲む一般席がホットコーナーです。営業時間は18時からでしたが、お客様がいない早い時間は掃除していましたよ。

DT: 当時のエピソードをお聞かせ下さい?

H: 楽しかったエキサイティングな青春ですね。特に週末は横須賀や福生から来られるお客様も多くてね。その後、大学を卒業して会社に就職しますが、後に転職し20セントグループに入社し、サパークラブ「サハラ」の主任をやりました。この頃の菅野代表は事業を成功させて、もう気軽に声を掛けられる存在ではなくなっていました。その後「サハラ」は生バンドを外してディスコに改装しました。原栄三郎店長は、菅野代表と大学の同級生でした。ちなみにこの頃のグループは、仙台は玉木邦甫店長、名古屋は吉岡正樹店長、「シーファリ」「鬼太鼓」は川崎富夫社長が見ていました。六本木プラザビル4Fがグループ事務所だったのですよ。

DT: ところで、当時の六本木地区のサパークラブの定義って何だったのですか?

H: うーん、サパークラブにはホステスはいないのですよ。20セントは生バンドがあって、食事が出来てお酒が飲める、踊れるお店。英国流のパブリックハウスはフランクですけど、すわってゆっくりできるナイトクラブに近いものと考えて頂ければ良いのでは・・・

DT: 当時の港区方面の他店事情をお聞かせ下さい。

H: やはり日新物産、後の「Aプロ」ですね。「プラスワン」「クレージーホース」を始めとして、サタデーナイト・フィーバーの頃、3ヶ月で出資金を回収したといわれる「フーフー」「ネペンタ」、フランスのル・モンドに出た「サンバクラブ」などです。20セントグループは「エル・コンドル」が転換期でした。それ迄はアールデコが基調の内装でしたが、高級店として演出を斬新にし鏡張りにしてスモークマシンを取り入れました。

DT: 広島で2店のオーナーとなる迄のエピソード、今のこだわりをお聞かせ下さい。

H: 20セントグループの「サハラ」を経て広島へUターンしました。その後、喫茶店から始め、スナックをやり、現在広島市内で2店を経営しています。今のこだわりとしては、やはり「お客様に安く、楽しく、安心して飲めるスペースを提供をすること」これが私どものモットーであります。皆様のお越しをお待ちしております。

DT: ありがとうございました。では、奥様にお伺いします。初めてディスコに行かれる様になったきっかけや「アフロレイキ」のスタッフとして従事する事となったきっかけは?

平本美江子氏(以下Hと省略): 学生の頃、初めて連れて行ってもらったのが新宿の「ジ・アザー」でした。音楽、ダンスが好きだったのでディスコに通う様になりました。大手百貨店に勤めていたのですが、直接、マリオさんから働いてみないかと言われたことがきっかけです。

DT: ご自身がお気に入りだったアーティストや曲は?

H: スローからビートの重いものまで色々ですが、James Brown "It's A New Day", First Choice "Armed And Extremely Dangerous", Con Funk Shun "Lady's Wild", Earth Wind & Fire "Devotion" などです。

※First Choice "Armed And Extremely Dangerous"=「暁の非常線」

DT: お店としては、大変人気を博していましたが、以外と短い営業期間でしたね。

H: そうですね。1年半位です。週末の金曜日・土曜日は、800〜1000人、平日でも300人位は入っていました。週末の混み方はもの凄くキャッシャーからトイレまで店内を通れない位だったため一旦正面から店を出てから裏口へ廻って行く程でした。しかもトイレも行列状態でした。入場料は、男性1800円・女性1300円で、六本木、武蔵小杉、綾瀬と3店鋪ありました。当時としては画期的だったと思うのですが、VIPルームに、テレビモニタを9台配置しライブステージが写る様になっていたのです。お店にはJBLの大型スピーカー4個、小型スピーカー12個位を設置し、音響設備が充実していました。Natalie Cole, Stevie Wonder, Larry Graham, Chaka Khan, Sister Sledge, Kool & The Gang, Barry White, Commodores など海外の大物ミュージシャン達が中野サンプラザ等のステージ後に来店しました。 あとアフロレイキはニッポン放送で、ビクターと共にラジオ番組を提供していました。番組出演のDJ糸居五郎氏は毎週金曜日にラジオと同様の独特な語りとソウル・ミュージックでお客様を魅了していました。FENでも有名だったヒューイやトニービーといったDJの方達も正に本場の選曲でお客様(特にブラザー)には抜群の人気がありました。

DT: お店のエピソードや出演されていた方をお聞かせ下さい。

H: 今でもそうなんですが、社長のマリオ山口さんは音楽関係のお仕事をされており、お知り合いの方にはプロモーターの方も多かったです。 出演していたバンドとしては当時、日本でNo.1のソウルバンドだったと私が思う「スリーチアーズ・コングラチュレ−ション」(メンバーにはLAを拠点に活躍されているジャズ・ソウル系歌手のmimi(宮本典子)さん、某国営放送から民放まで音楽だけでなく幅広くメディアに登場するグッチ裕三さん、タレント活動に加え焼き鳥屋さんも大繁盛のウガンダ・トラさんがおられました)が一番印象に残っています。それから、もんたよしのりさんのバンドのドラムスを担当されていたマーティー・グレイシーさんも出ておられました。お店のスタッフは、ディレクターとしてエモリAIさんと紺野慧さん、元ブティックの店長さん、元銀行マンなどユニークな経歴の方が多かったですね。また、店の雰囲気を更に盛り上げたブラザーの店員さん達は上智大学へ留学されていた方やモデルの方たちで、白いスーツに身を包みクールな風貌、アカデミックな雰囲気とインテリジェンスを漂わせていました。彼らは気さくな性格でファンの女性客の方も多かったです。お店のお客様は半分位がブラザー&シスターでモデルや芸能人、プレス関係やレコード会社関係の方達も多く来店されておられました。ファッションはアフロヘアーにソウルファッション(女性はタンクトップでホットパンツに厚底靴、男性はソウルカラー(黒・赤・緑の組み合わせ)を身に付けた方)が目立ちました。熱気でね、冬は外に出ると身体全体から湯気が出ていたのが思い出ですね。そういえば、ディスコ対抗野球大会なんていうのがありまして、今写真を見るととても野球をやっている人たちとは思えないファッションをしていましたね。(笑)

DT: 今回のインタビューはダンスミュージックとディスコ文化の流れやルーツを探ることができました。本日は貴重なお話をありがとうございました。

('03年2月22日 SOUL TRAIN GANG にて)


SOUL TRAIN GANG
広島県広島市中区新天地1-9 新天地レジャービルB1F
Tel. 082-246-4123
「過去」「現在」「未来」が混在するショットバー。重厚なオーディオシステムが奏でる懐かしの'70〜'80年代の曲から、近未来的なCGの世界まで堪能できます。老若男女を問わず楽しめるアミューズメント・スペースを目指しています。生ライブも随時あり、カウンター席、ロフト、半地下など 変化に富んだシチュエーションをお楽しみいただけます。

OUR GANG
広島県広島市中区流川町2-24 蔵ビル4F
Tel. 082-248-0201
磨き上げられた石造りのカウンターに石垣を埋め込んだ壁。ボックス席は鉄格子で仕切られ、壁にはアルカポネの彫像が。禁酒法時代のアメリカをイメージしてみました。BOSEのPAシステムから流れる曲と 壁面に映し出される映像が一層盛り上げます。

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