Disco Time machine - Back

SOUL INN Afro-rake

M. YAMAGUCHI

「僕は、音楽との接点、音楽とディスコと関わってずっとこんな感じでやってきました」
連載第一回

「Disco Time machine」では特別企画として、'74年にディスコがかつてないブームを巻き起こした頃、その台風の目となった「ソウルイン・アフロレイキ」のオーナー マリオ山口氏のインタビューをお送りします。マリオ山口氏は御自身もミュージシャンであり、数々の大物アーティストのプロデュースにも携わってきた方です。

マリオ山口

マ リ オ 山 口

和歌山県出身

 
 
 

独占インタビュー

ディスコ・タイムマシーン(以下DTと省略): 本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。どうぞ宜しくお願い致します。

マリオ山口氏(以下MYと省略): こちらこそ宜しく。まず、この話からいきましょう。マハラジャといえば20セントグループの菅野さんだね。菅野さんといえば、僕がアメリカから帰って来たときにディスコをやれと言われたんですよ。ズッケロというお店をやってみるかといわれたんだけど、いつのまにか、立ち消えになっちゃった。それで自分でやっちゃえ!っていうんで、「サロンドクリスティー」というお店を始めました。三浦友和氏に50万借りてね。僕は、彼のバックバンドをやっていたんですよ。全盛期の頃にね。アフロレイキの前です。1日15万ギャラもらってツアー組んで。 アフロをやろうかやるまいか考えていたときに三浦友和氏から一緒にやってよって言われて、全国ツアーをやっていました。

DT: いきなり、強烈なお話ですね!ところで、最初の音楽との接点は、いかがでしたか?

MY: 僕の音楽との接点はね、「坊や」をやっていたんですよ。「坊や」ってわかりますか?アシスタントですよ。関西の方のフルバンド。「富士」っていうキャバレーに出ていました。ダンスホールですね。ドラムをやっていたんです。ある時にドラムをやっているよりも、パーカッションをやりたいなと思ったんですね。 ドラムはセットだけど、パーカッションはいろんな楽器が使えるじゃないですか。で、これはおもしろいと始めたんです。坊やを1年位やっていました。
ある時、梅田のクラブに出ていたら、アイジョージさんが飲みにきたんです。マネジャーの人が僕のところに来て名刺をポーンと置いて、演奏が終わったら来てくださいと言うんですよ。終わっていったら・・・その時の言葉は今でも忘れていません。「YOU、東京に来ないか?」と言われたんです。パーカッションやって1年生でした。僕、生まれは和歌山県です。そんなこと急に言われてもねえ。まだ気持ちも何も・・・それであくる日、京都会館で演奏しているから見に来いというんですよ。それで楽屋に行ったら、「YOUはサイズはどれ位だ?」ってね。ステージ用の衣装を作ろうとしているんですよ。 「ちょっと待ってくださいよ。急には辞められませんよ、1ヵ月待ってください」と言ったんです。だってアパートを借りる金もない、東京に行く金もないでしょう。そうしたら、全部心配しなくていい、アパートも借りてやるから、交通費も全部持ってやるからと前借りさせてくれたんです。それで東京に来てジョージさんとやっていたんです。

DT: 「YOU」って!?・・・(絶句)

MY: そうしたらダン池田さんがうちに来ないかというんですよ。ダン池田とニューブリード。ダンさんのところでまだ18か19でした。ダンさんの所はラテンバンドなんですよね。フルバンドのラテンはあまり興味はなかったんですが、ギャラも結構出すよ。ということでダンさんの所にいったんです。ジョージさんの所は1年位でした。ただ、ダンさんの所の事務所が厳しい状況になって・・・その後チャーリーさん、チャーリー石黒と東京パンチョス、渡辺プロからスカウトされたんです。昼間テレビの番組、夜はナイトクラブ、最終的にギャラを50万位もらっていました。

DT: かなり短期間に環境が激変したんですね。

MY: ものすごい過密なスケジュールで、もうやっていられない状況になりました。それで、自分たちでグループを組んでやった方が早いねと思ったんです。21のころでした。米軍回りを始めたんです。横田の米軍回りをしていたんです。NCOクラブで演奏していたら、黒人のおじさんと知り合ったですよ。米軍の物資を運んでいる仕事をしていた方です。出身がニューヨークなんですよ。知り合って何か月かたって家に来なさいというんで、行ったらソウルフードなんですよ。うまいなあと思ってね。「おまえアメリカに行くか?家も飛行機もタダでいいから」米軍の物資を運んでいるワールド航空の副社長さんでね、のせてもらってハワイ経由でニューヨークに行きました。それでディスコに行きました。これが最初のディスコ経験、ディスコに携わるきっかけになったんです。
半年近くニューヨークにいました。日本に帰ってきて音楽やりながら、その時は27、8歳でした。インパクトだけは忘れられなかったんですよ。ニューヨークのディスコ。ホントに黒っぽいディスコでしたね。忘れられなくてね、ノートに描いていたんです。
27歳の時にある建設会社の部長さんと知り合うことになりました。飲んでいるときにそれを見せたら、「おまえこれは面白いぞ、スポンサー紹介してやろうか」ということで、朝岡雪路さんの弟、勝田氏を紹介して頂いて、協力してやってくれと話してくれたんです。そしたら「つぶれた店でいいか?」って言われて。「70−80坪で1軒六本木にあるよ」という事になったんです。これはおもしろい。やってみようと。これが「アフロレイキ」です。高級サパークラブを改装、ライブステージを作って、VIPルームからビデオが見える様な造りを考えたんです。16台位。だけど、運転資金も無いですよ・・・と言ったら2,000万位貸してくれたんです。まだ27才位の若造だったんで、僕の友人で吉田内閣の頃の閣僚の息子さんがいて、仲が良かったんで彼を代表にしたんです。DJは、FENのトニーB、ヒューイっていうの。アメリカの雑誌「EBONY」、「PLAYBOY」、「Billboard」にも紹介されました。
売り上げが3ヶ月くらいするとこんな段ボール箱がドル箱状態だったです。それで他に店を出そう、一気にアフロレイキを7軒位出しました。半年で2,000万返しました。今だったら8,000万円位でしょう。

DT: ラジオ番組やっていましたね。マーケティング面でもユニークでした。

MY: ニッポン放送でラジオの提供をはじめたんですよ。糸居五郎氏のDJで、「ソウル・フリーク」という番組、成城学園前で「アナザーワールド」、麻布十番で「ルーファス」という店をやっていた頃には、「Soul information 76」という番組をやりました。「Soul Information 76」では小林克也氏と私でしゃべっていました。合言葉をいうとボトルプレゼントなんてね。毎日がTV、雑誌取材でした。「平凡パンチ」、「週刊プレイボーイ」から「国会の新聞」まで載りました。

DT: その番組はラジオで良く聞いていました。録音したテープが家にあるはずです。音楽との関わりあいが、ディスコとの接点になったのですね。

MY: そこまでやると、ここまでやるとお客さんがぐっと入ります。そこまでの店って無かったですからね。だから僕がディスコと関わるきっかけっていうのはニューヨークのハーレム地下のディスコやアポロ劇場で見た演奏、これが原点です。僕は、ディスコをやって大当たりして向こうに行っていろんなミュージシャンと知り合いました。ニューヨークのカーネギーホールに行ったらね、もう入口前が満杯で行列なんですよ。誰が出ているのかな? 見たらクルセイダースなの。ポーターに、日本から来たマリオだけどって言うと、トランシーバーで、楽屋からジョーサンプルが「よく来た、入って来い」ってね。

DT: ニューヨークでのエピソードを教えて下さい。

MY: 「一世風靡」ご存知でしょ。僕はプロデューサーの1人なんですよ。日本人として初めてニューヨークのアポロ劇場に出しました。でもね、日本人は絶対ダメだって言われていました。支配人に絶対ダメって言われた。明日本番という日まで、42ndでガンガン路上パフォーマンスやらせたんです。ニューヨーク・タイムスなんかがガンガン書き立ててね。日本の凄い野郎達が来た。どこでやる予定だ、アポロでやるよってね。明日出るんだってね。ニューヨーク州のカマーフィールズ元副知事と懇意にしていましたし、オノ・ヨーコ、ロバータフラックみんなアフロレイキにきていたから・・・ 一番効いたのは、ロバータフラックがアポロの支配人に電話して、「おもしろいからやらせなさいよ」って言ったんですよ。それで上演。会場は超満員!前日に、クルセイダースが出演していてね、スタッフが打ち合わせに行くとジョーサンプルが日本人だと聞いて「君達、マリオ知っているかい?」と言われ、今回プロデューサーだと言うと、じゃ今日来るねと言われていた様でしたね。でね、支配人が握手してきて僕に言ったの。「マリオ、次いつ来るんだ?」それでね、こう言ったの。「もう来ないよ」って。ブロードウェーのあちこちから半年契約で出ないかってガンガンきた。
僕は、音楽との接点、音楽とディスコと関わってずっとこんな感じでやってきました。その頃は、毎月バンドを探しに海外に行っていました。マニアックにね、ドロドロした部分を出してね。ロスよりもニューヨーク。

DT: ところで、アフロレイキの頃の70年代ファッションは?

MY: ハイシューズ、ハイヒール、パンタロン、脱ぐとはかまになっちゃうやつ。バギーみたいなの。上は「赤・緑・黒」のソウル・カラー。
あの頃一番おもしろかったのはね、CRSっていう族がいたんですよ。スペクター、ルート、キャッツね。軍団ですよ。僕が立川行くよって言うと、甲州街道に単車がずらっと並ぶのよ。それにアフロレイキのステッカーはらせてね。それと野球選手、アルトマン、ぺアーっていう野球選手がいたでしょ。ミズノのバットにアフロレイキのステッカー貼らせたんですよ。こんな感じでみんなに支えられてね。で、アフロに来てもらって、共感する、こんな感じ。

DT: 当時の六本木事情についてもお聞かせ下さい

MY: 当時の六本木っていうとエンバシーとアフロをかけもちって感じだね。

DT: エンバシーとキューもアリですね。

MY: そうそう、キューはアフロの後にできたお店。今もやっているのは「レキシントン・クイーン」あそこ位でしょ。あそこはロックだけど、20年位やっているね。僕はレキシントン・クイーンと言えばね、勝新太郎さんが貸し切っちゃって一緒に飲んだことあるんだけど、飲め飲めってね。それで隣のキサナに行ったら勝さんのお嬢さんが遊んでいてね、お父さんに言わないでねって。キサナといえば、不二屋の藤井さんって人は、ほんとにやさしい人だったんだよ。

DT: 個人的に一番好きなアーティストは誰ですか?

MY: 僕が一番好きなのはチャイライツ。

DT: 「Oh, Girl」・・・シカゴの灯ですね

MY: そう、それと流行していたのはコモドアーズ、バンプだね。バンプは初めてフィリピンの外人バーでみんなが踊っているのを見て、アフロのオープンに間に合わせました。コモドアーズもアフロレイキに来たよ。

DT: その時に、「I Feel Sanctified」で、東京音楽祭銀賞でしたね。

MY: おもしろい話をしましょう。S.W.って見えているって僕は今でも信じているんですよ。彼の住まいのちょうど裏に住んでいるのが日本人で僕の友人なんです。「Hi」というと、こっち向いて「Hi」って言ってくれるんだって。奥さんは白人で美人なんだよね。S.W.がアフロレイキに来た時にスティックを渡したらね、ドラムを叩いたんですよ。スネアとハイハットの違いはわかると思うんだけど、シンバルの位置は微妙でなんだよね。でもね、彼の流れるサウンドは本当に違いますよね。 それからアースなんかも、やっぱりアースの曲だってわかりますね。アースもアフロに来たんだけど僕は会ってないんだよね。店は従業員にまかせる様にしていたから。

DT: では次に、現在のライブハウスについて教えて下さい。

MY: じゃあライブハウスを案内するね。今の下北沢の若い人に受ける店づくりです。ライブとDJ、パーティ。最近、下北にアフロができたって話題なんだよ。それにね、当時のアフロに来ていた人たち、ファンの方が、目黒とか武蔵小山とかに店をはじめているんだ。

DT: 現在も、幅広く事業を展開されていますね。

MY: お店は好きなんだけど、起業家と事業経営は違うよ。事業は利益を生み出さなきゃ。今はね、「チャイハネ」、下北沢の「アフロレイキ」、百合ヶ丘に「シノワーズ」、「チャイハネ」、「酔臥居」っていう大工さんと自分でつくった居酒屋さん、あとは静岡に「サンマリオ」、由比が浜にもう一軒「サンマリオ」。おもしろいエピソードがあるんだ。静岡のサンマリオは天井まで5メートルあってね、チェッカーズが静岡でコンサートやっていて、NHKの紅白に出られなくてこの店でステージつくって中継しましたよ。店づくりって、お客さんがどういうことやったら驚くか、喜ぶか楽しいか。こっちから行くんですよ。まず自分がここいったら何が楽しかったか、何がおいしかったか、いろいろ分析するんですよ。その結果こういう店つくる。自分だったらこういう店に行きたいなって事なんですよ。だから、他人が作った店を僕がやっても無理!このアフロレイキの煉瓦なんて東京駅を崩した時の煉瓦なんです。ここつくったのは80才位の人なんです。アンティークを置いてね。

DT: 上のお店は飲茶のお店ですけど、飲茶はお好きですか?

MY: 僕はね、ニューヨークに行くと中華街にいって四川料理でタニシを食べます。一軒しかないんだけど、仲間たち10人位で行くんだ。辛いので炒めているの。うまいですよ。あと好きなのは魚・・・日本人だからね。アメリカのステーキは好きだけど焼肉はあんまり食べないです。それと、「ソウル・フード」ビーンズライス、チリン、キャベッジとかグツグツ煮たやつ、バナナの天ぷらとかね。今は結構若い人にヒップホップ人気だからね。僕だったら、こういう店やります。ブルーノートのディスコ版みたいなの。ニューヨークからバンド連れてきます。それからバンドだけじゃなくて、「ソウル・フード」出すのに、おばあちゃん面接して連れてきちゃうよ。僕はブルーノートの支配人からみんな知っているから。ブルーノートで1万円払うライブをディスコで5千円でいいじゃないですか。ブルーノートで800人位はいるのかな。半分以上はギャラ。今、ジャズの人達ジャズやっていませんし。「フュージョン」です。「TOTO」だってそうだよね。

DT: 最後に不況の日本経済に一言お願いします。

MY: 不況って言ったって、気持ちがそうさせているんですよ。ここでガーンとやれば変わりますよ。マハラジャもぜひ頑張って欲しいですね。

DT: このお話、ぜひ連載でお願いします!次回は、特にニューヨークでの「一世風靡」のお話を詳しく聞かせて下さい。本日はお忙しい中、どうもありがとうございました。


「チャイハネ」 「アフロレイキ」 ・下北沢

オープンテラスでお洒落なチャイニーズカフェ。飲茶から本格中華迄楽しめました。
地下がライブハウス・アフロレイキ。

('03年5月 下北沢「チャイハネ」にて)

Disco Time machine

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