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SOUL INN Afro-rake

M. YAMAGUCHI

「僕は、音楽と関わってずっとこんな感じでやってきました」
連載第二回

一世風靡との出会い

一世風靡ニューヨーク公演

ディスコ・タイムマシーン(以下DTと省略): 連載2回目という事で、本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。どうぞ宜しくお願い致します。

マリオ山口氏(以下MYと省略): こちらこそ宜しく。まず、今回もこの話からいきましょう。
僕ね、この前お話した様に、アメリカから帰ってきた時に三浦友和に50万借りて、六本木で「サロンドクリスティー」というお店を始めたんですよ。アメリカから持って帰ってきたアンティークのテーブルやライトとかおいて厚いガラスのテーブルとか作って・・・まあ盛り上がり席だったんですけどね。

DT: 今のドンキホーテの裏あたりですね。まだ「カフェバー」という言葉も無い頃です。

MY: そう、カフェバーがまだ無かったんですよ。20坪位のお店でしたが朝の4時迄どんちゃん騒ぎでした。場所はね、お墓の所。その時のDJがニック岡井。うちに3年位いました。それで原稿書くのに、ビクターとかいろいろ紹介してあげて。白金の「ダンステリア」は一時期、辞めていたんです。ニックと音楽評論家の紺野慧(こんのとし)が交互に回していました。

DT: 音楽評論家の紺野慧氏は、ジャズやソウルに関する本をかなり書かれていて、「スイング・ジャーナル」や「ADLIB」などで音楽ファンにはおなじみでした。昭和48年に出版された「ソウルミュージック・イン・ジャパン」は名著ですね。

MY: アフロレイキの時はね、有田二郎代議士(元自由党副幹事長)の息子さんが社長、友人です。僕が副社長。僕のスポンサーは勝田さん、朝丘雪路さんの弟さんです。勝田さんから「お前やってみろ」ってことになったんです。僕も未だ若かったんで有田二郎代議士の息子さんを社長にして、僕が副社長となりました。紺野と江守がディレクター。

DT: 高度経済成長期の昭和史を感じさせる強力な布陣ですね。

MY: あの頃のやり方っていうのはね、交差点のアマンドに座っていて、週刊プレイボーイの取材を受けていてね、今もいますよ、グラビア作っていた松島っていうの。「三ヵ月、待ってよ。今、上から見て、人がこんなに分散して歩いているでしょ。ぜんぶアフロレイキに向かわせますよ」ってね。それでね、昼間アフロレイキで、宮本典子、グッチ、ウガンダの「スリーチアーズ」が練習しているでしょ。見に行ってみたらね、お客さんが、既に並んでいるんですよ。「沖縄から来ました」ってね。

DT: ところで、その頃のディスコって、常に一触即発で、盛り上がると喧嘩はつきものでしたね。

MY: えぇ1日1回は喧嘩がありました。「なんで、お前らモメるんだよ。仲良く飲めばいいじゃん」って、僕がいつも「止め役」。族でね、「一寸法師」っていうの。毎日来ていました。今、ソウルバーやっていますよ。あとね、最近こういう学生は、あんまりいないんだけど、僕が小田急線に乗っていると皆で「押忍!押忍!押忍!」・・・電車乗れないよ。(笑)

DT: 今のアフロレイキはいかがですか?

MY: 今のアフロレイキは下北沢の若者に合わせて造ったお店、ライブハウスです。下北沢は「若い人の街」、そして「下北沢のライブハウスでやる」、これが若い人のバンドのステイタスで、大変人気を呼んでいます。
また、ほんとのアメリカのディスコとしてのアフロレイキをやりたいですね。ビクターの高垣・・・今はサザンの担当、田島は社長室長かな。みんな偉いさんになって僕に言うんです・・・「やれよお前、お前しかできない!」ってね。「おぅ、やるよ!金持って来いよ」って・・・1億5千位は音響関係でかかるね。「宝くじ」しかないかな。「でも俺、当たったらやらないよ!?」ってね。

DT: ビクターって、最もディスコを普及させたじゃないですか。モータウンがあったし。「Sound Of Young America」でしたっけ。

MY: ビクターの中堅以上の人達は、みな僕のファミリーです。「RCA」「RVC」ありましたね。それから、この間まで「テイチク」だったとこ、「ソニー」。みんな元アフロレイキ担当、各レコード会社に担当がいました。今、菊池桃子の事務所の女性社長はソニーのアフロレイキの担当でしたね。高垣、南、あじまちゃん、本多・・・あと、BMGビクターの高橋社長、毎日の様にアフロレイキに来ていました。
ミッキー安川さんと週刊プレイボーイか平凡パンチで対談した時にね、「俺は何人も対談やったけど、お前位ポリシー持っている奴はいない!」って言われました。その位、アフロレイキってのは僕の心の中に残っています。

DT: 先程も少しお話に出ましたが、マリオさんのやり方というのをお聞かせ下さい。

MY: アメリカから帰ってきて、菅野さんがお前のこと探しているって言われて呼ばれた時、「お前、店やらないか」って言われたんです。それで、「僕がやりたいディスコってのは、こんな感じですよ。僕のイメージは絶対無理です」って言ったんです。それでも、「お前の好きにやっていいから」って言われて。 それから速攻で200万もらってアメリカ行ってバンドのオーディションに行きました。レンタカー借りてロスからメキシコまで行きました。いいバンドがいたんですよ。まだムゲンがあった頃です。ボーカルが黒人のゲイで6人編成でね。でもね、日本に帰ってきたら、なぜか菅野さんから「マリオ、あれは無かった事にしてくれ」と言われて自然消滅です。このバンドはムゲンに紹介して出演しました。
それで、三浦友和から50万借りて「サロンドクリスティー」を始めました。友和とは昔バンドやっていたからね。

DT: 三浦友和さんというのが意外ですね。マリオさんとかなり雰囲気が違うような気がするんですけど。(笑)その辺のお話は次回に・・・

MY: そうですね。ところで、僕が「ブルーノート」に行くときは、自分の知っているグループが来るときです。ラリーカールトンとか、ジョーサンプルとかね。電話が掛かってきますから。僕は、自分が音楽やってきたから、耳から入ってお客さんに感動を与えたいんです。夢を見させたいんですよ。それをやらなきゃ意味がない。まずは、音楽を知らない人に語っても始まらない。語ってもしょうがないから、体で提供していけばいいでしょ。こういう感動を与える店でなきゃ、やる意味ないです。僕はビジネスでなくて、イコールで心がある人に感情を持っていきたい。見てもかっこいい、歌ってもコーラスきれい、それで聞いているファンは思わず体が動き出す。僕がドラムからパーカッションに移行したのも、ガーンと感情を叩き出すと、ガーンと感情が返ってくる。これで、パーカッションっていいなあと思ったからなんです。

DT: ところで、ニューヨークのお話をお聞かせ下さい。

MY: そうしましょう!アフロレイキをやってね、アフロレイキをやって3年後に、最後の音楽をやる為に「ニューヨークに行くよ!」って行ったんです。それで日本に帰ってくるつもりもなかったんですけどね。ニューヨークで演奏していて、川内康範先生が聴きに来ていて、ファンになってくれました。「月光仮面」の原作者の方です。その時は川内康範先生が、森進一さんの「おふくろさん」や、青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」の作詞家だとは知らなかったです。東芝EMIで月光仮面のナナハンに乗ったやつをやるからって言われて「いいっすよ、でも高いっすよ」って言ってね。それで、三ヵ月の臨時予定で日本に帰ってきたの。帰ってきた次の日に、恵比寿で焼鳥のおいしいのを食べてね、「こんなおいしい焼鳥はない!」って。この味に感動してね。「日本の味」なんだよ。それとラーメン!並木橋「香月ラーメンうまいなあ」と思ってね。僕ね、毎日食べたいラーメンがあるの。ゆで卵を乗せたやつ、それからトッピングが始まったの。あの方がよく来ていましたね。レースやっている女性・・・えーっと三原順子。夜中に行くとよくいましたね。 でもね「やっぱりアメリカ帰るのを止めよう」って思ったのは勝新さんがきっかけなんですよ。「おぉ、マリオ帰ってきたんだって?今日はお前のPartyだ!」ってんで、レキシントン・クイーンですよ。客帰しちゃって、突然貸し切り。「大事なお客さんだからね。祝いだ、祝い!」その日は、僕と紺野慧、マネージャーのジミー。あんまり勝さんが派手だから、店長呼んで「ここの支払い、どうなっているの?」って聞いたの。 「勝さんです」「払っているの?」「たまっています・・・」ってね。それで勝さんが、「今から銀座行くぞ」って言うんだけど、「今日は銀座、勘弁して下さい」ってね。
隣のキサナドゥで、僕がアフロでスカウトしたマイケル池田が店長やっているんで、隣のキサナに行ったの。そしたら勝新さんのお嬢さんがいてね、「今、おやじさんと隣で飲んでいたんだ」って言ったら、「えっ、ここにいるのは内緒にしといてね」。(笑)

DT: うーん、なるほど。よくわかりました。やっぱり勝新さんって常にエピソードも大物ですね。その後、「一世風靡」との出会いがあったんですね

MY: そうですね。一世風靡の話をしましょう。一世風靡はね、僕がクリスティーをつくった頃は、まだ原宿でパフォーマンスやっていたんですよ。その時のレコード会社が「徳間音工」。当時、和物しかやってなかった。柳葉くんとか全然メジャーじゃない。そこの代表から「一回会って下さい」って頼まれたの。「今度、徳間音工からデビューするんですよ」「おぉ、いいじゃない!」それでね「このグループは日本よりもアメリカの方が売れるよ。これは最高に売ってみせるよ」って思いました。僕はそれから彼等と一ヵ月間、アメリカに行ったら何が受けるかって毎日練習しました。'87年のことです。僕がトータル的にプロデュースしました。津軽三味線を取り入れて、立ち振舞い、振り付けから刀や鎧、扇子、衣装から小物を通じて日本文化を伝えたかったんです。
ニューヨーク州の元副知事のカマーフィールドさんに頼みました。日本びいきでも有名な方で、元鈴木都知事などとも親交があった方です。御主人がドナルドさん、奥さんは日系3世でエリザベスさん。奥さんのエリザベス・カマーフィールドさんは、日本に来ていた時に「今からゴルバチョフの所に行くんだけど、マリオちゃんもいっしょに来ない?」「明日は無理です」なんてね。この方が、ジョンレノンとオノヨーコを結び付けた方です。

DT: このニューヨーク公演は、道に始まった「劇男 一世風靡」の伝説的舞台となりましたね。

MY: 一世風靡はねアメリカでやるんだったら、僕がプロデュースをするし、僕が金を出す。僕はちょうどその時にベンツ買おうと思って、金貯めていたんです。まずは観光ビザで行く訳ですから、向こうで金儲けすることを考えるんじゃ無くて、ギャラも1円も出さない。飯食う金や小遣いは、自分持ち。そのかわり滞在費なんかは全てスポンサーを付けてやりました。JALにスポンサーになってもらって飛行機代、ホテルはタダ。テレビ局は1社だけ、「11PM」だけ。マスコミは出さない。共同通信とかも出さない。ただフォーカス、フライデーに「42nd」でパフォーマンスやっていたのを撮られちゃいましたね。11PMで1時間番組の特集をやりました。シティホールとかハーレムとかずっとカメラ回して撮りましたけど、他のマスコミは一切入れませんでした。なぜならば、ここから発信「ニューヨーク発信の一世風靡」を訴求したかったんです。 そうしないと、ややもすると全米デビューみたいな形になって、安易に流れてしまうからです。徳間音工の役員の方も賛成してくれました。それでね、リハーサル費は別にして、アポロで売上げがあるじゃないですか。それはみなエイズ財団に寄付しました。エイズ財団はエリザベス・テーラーがやっていました。ニューヨーク州からエリザベス・テーラーに渡してもらって「一世風靡の皆さん、本当に有難うございました」とメッセージを頂きました。アポロの時は前回もお話した様に、前日までとにかく出さないという事で、看板も出来ていなかったんだけど、ロバータ・フラックからオノ・ヨーコからみんなガンガン電話してくれました。
ところでね、一世風靡がニューヨークでやる1週間前に、シティホールで某大物演歌歌手がやっていたんですよ。で、みんなチケット割り当てられるんですよ。「頼むから行ってくれよ」「うーん勘弁してよ」ってね。こんな感じにはしたくなかった。

DT: まさに、マリオさんのやり方ですね。アメリカって成功した方はチャリティーをやるっていう印象があります。

MY: そう、まだ30代だったんだけど、ABCテレビの30分ニュース番組で取材されました。

DT: 普通、ABCテレビのニュース番組で、個人を相手に30分番組ってありえないですよね!

MY: ゲストとしてエリザベス・カマーフィールドさんと一緒に出演したニュース番組で、「どうして、まだ30代の若さで、こんなにエイズ財団のチャリティに寄付をされるのですか?」という話がでました。「ベンツを買おうと思ってお金を貯めていたんだけど、一世風靡に賭けました」そして、感謝状を頂きました。
話戻るけどね、ニューヨーク在住の日本人の方たちは本当に僕たちに協力してくれました。お金が無いっていうとみんな「おにぎり」作ってきてくれてね。もうね、あれは感無量でした。最後のアポロ終わった日に楽屋行ったら、もうお寿司の山ですよ。みんなハンバーガーしか食ってないから、柳葉敏郎がワンワン泣くわ、もうそれは凄かったです。
雨がしとしと降っていた日だったけどね、前の方で黒人のおばちゃんが泣き出しちゃったの。それとね、ハーレムの子供たちを400人位招待したんです。とにかく日本の文化を見せてあげたくて。その子たちの握手ぜめ!僕らはその日はニューヨーク市のはからいで、「マリオさん何食べたい?」「俺はソウルフードだ。お前らもみんな食え」って言って、「よーし本場のソウルフードだ!」って。ニューヨークで、ここがおいしいよって所にバスで連れて行かれて。それで、おばちゃんたちがソウルフード作ってくれているんですよ。店じゃないんです。特別に作ってくれたんです。みんな欠食児童みたいなもんです。「寿司、今食っていたじゃねえか!」でも「うまいうまい」って食ってるんです。そこで食べて、次の日がクラシックバレエとモダンバレエの、もうこれだけの人呼べないっていうようなコンサートがあったんです。僕、小木、柳葉、哀川翔、代表、通訳・・・6人位、ニューヨーク州から招待されたの。チケットが1枚700ドル。ディナーつき。僕ら時差もあるし、疲れきっているからバレエ踊っているの見ていると眠くなっちゃったの。で、拍手。終わってから、「みんなフランス料理だよ」っていうと、 「勘弁してくださいよ、フォークとナイフは、止めましょうよ」という事で、今から焼鳥でも行こうかという事で日本レストランに行ったの。もうほんとに柳葉は泣きまくって・・・でも哀川は結構冷静なんですよ。

DT: だって一世風靡の決めるポーズがあるじゃないですか。確か柳葉さんが、一番足バシッと広げていましたよ。それと柳葉さんは独特なニックネームがありました。

MY: そう、俺が初めて一世風靡見た時、「こいつらソウルだな、『魂』ぶつけてくるな」って。そう思ったんで、「よし!やってやろう。アメリカに持っていってやる。それもカーネギーホールとかじゃなくて『アポロ』、白人が一人もいないアポロ!」
それなりに有名にはなっていましたけど、一世風靡なんて誰も知らない。80%黒人、20%が日本人。それがニューヨーク・タイムスに出たり、向こうのマスコミにガンガン出たりね。その後ブロードウェイで半年契約などの話がガンガン来ましたけど、みんな断りました。

DT: ところで、この写真は、若かりし頃「マウントフジ」で長島さん、マウントフジの藤田社長と一緒に撮られた写真ですね。

MY: そう、ニューヨークに「マウントフジ」っていう日本レストランがあるんだけど、そこは僕がプロデュースしたんで、一時期、毎月行っていたんです。一世風靡の時に藤田社長がバスをチャーターしてくれて、「みんな連れておいでよ」ってテレビ・クルー含めて総勢20数人、行ったらフルコース振舞ってくれて、「マリオちゃん、こんなに毎日飯食わすの大変だろ」1万ドルくれて・・・
そう、結論!「一世風靡、こいつらソウルだな」って思ったからやったの!ちなみに、その後「松田聖子」頼まれたの。「アメリカでデビューさせたい」って。「申し訳ないけど」ということで、ご遠慮させて頂きました。僕の世界じゃないです。僕はアフロレイキの頃も、フィリピンバンド入れる時なんかでも、一人で15日位、フィリピンに滞在して、毎晩バンド見てスカウトしました。僕はスリーチアーズだって、「エスエスエンタープライズ」って所の社長から、「変わったバンドあるんだけど、これからだからマリオさんに聞いてもらいたい」って赤坂の店で出会いました。「こいつら将来性あるな、アフロレイキ出演する?」って聞いて命賭けました。
僕ね、成城だけじゃなくてね、六本木にも「アナザーワールド」造ったの。今のテレ朝の、ちょっと先いった左側の地下。その時、「ソフトーンズ」入れたの。

DT: ソフトーンズ!うーん、確か「Sounds With Coke」で「ミラクルズ」とか「スタイリスティックス」なんかと一緒に来日公演やっていましたね。

MY: キョードー東京のショーで来て、あちこち回ったの。で、キョードー東京の社長が「マリオさん、1日空いたんだけど」って言うんで入れたの。コーラス、きれいだったですね。ところでね、もしインターネットで検索していて店やりたいっていう人いたらね、僕は「ライブ・ディスコ」やりたいね。ドロドロのソウル、飯も全部ソウルフード、従業員は黒人。バンドもDJも・・・夢としてね。「BTエキスプレス」なんかもいいよね。こういうのだったらどうかな、1人1万円で1万人会員、それで会員しか入れないの、でも一度に1万人は入れないから要予約???
先日、ガールフレンドと一緒に横浜で「ラリーカールトン」のライブに行ったんですよ。そしたら、僕の前にいた2人がうるさかったんで注意してやろうかなと思ったの。そしたら、「マリオさんじゃないですか?」って僕に話し掛けてきたんだ。よく聞いたら、アフロレイキやサロンドクリスティーの頃にお店によく遊びにきていた方だったんだ。今は手広く事業をやっている様で、この会員制の話をしたら後日電話がきてね、「会員100人集めました」って。

DT: うーん、泣かせる話ですね。

MY: それとね、ぜひインターネットで、お願いしたい事があるんですよ。まず、音楽評論家の「紺野」を探して欲しいんです。
それと、次回お話したいんですけど、僕は中伊豆で子供たちにパーカッションを教える教室を始める構想を持っているんです。教室というよりは寺子屋かな、このお話は次回にします。そんな関係もあって、先日沼津の大瀬海岸に行ってた時にダイビングをやっている稲森さんって方がいらしたんですけど、この方にもネット上から「ご一報下さい」とメッセージを伝えて欲しいんです。

DT: OKです。探してみましょう。この記事をご覧になっていたら、ぜひご一報下さい。

('03年夏 新百合ヶ丘のおいしいお寿司屋さんにて)

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